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第5話 夜会の条項

Autor: みだん
last update Data de publicação: 2026-10-26 18:56:53

ボーモン伯爵家の屋敷は王都の丘の上に建っていた。

坂道を上る馬車の窓から、無数の魔法灯にともされた屋敷が見えてくる。

夜空の下で、そこだけが昼のように明るく浮かび上がっていた。

「君は査読係さどくがかりとして来てくれればいい。僕の隣に立っていてくれるだけで、心強いから」

向かいの席で、テオドールが言った。

リゼットは膝の上で手を重ねたまま頷いた。

身につけているのは、母の形見の、淡い若草色のドレスを仕立て直したものだ。

流行からは少し外れているが、丁寧に手入れをしてきた自慢の一着だった。

それでも伯爵家の夜会に足を踏み入れるのかと思うと、指先が冷たくなる。

今夜はいつも結んでいる髪を下ろしている。

ゆるく波打つプラチナの髪が背中で揺れるのが落ち着かなくて、彼女は何度も後れ毛を耳にかけ直した。

馬車に乗りこんだとき、そんな彼女を見たテオドールは、しばらく言葉を失って固まっていた。

理由を尋ねる前に、彼は窓の外へ目をそらしてしまったけれど。

そして何より、目の前の公爵が落ち着かなかった。

えんじ色のくせ毛を撫でつけて後ろへ流し、黒の正装に琥珀色のタイを締めたテオドールは、研究室で紙の塔に埋もれている人と同じ人物とは思えなかった。

いつもの猫背まで、今夜はまっすぐに伸びている。

ただ、手袋の縫い目の隙間からインクの染みがほんの少しのぞいている。

それを見つけて、リゼットはようやく少しだけ肩の力を抜いた。

屋敷の大広間は音楽と香水と笑い声で満ちていた。

天井から下がる大きな飾り灯が磨きあげられた床に光の粒を散らし、着飾った人々がその上をゆったりと行き交っている。

正装の公爵が広間に足を踏み入れると、あちこちで令嬢たちの扇が止まった。

研究室にこもりきりの変わり者が、こんなに見栄えのする方だったなんて。

そんなささやきが聞こえてきて、リゼットはなぜか、少しだけ落ち着かない気持ちになった。

「テオドール様! 来てくださったのね」

人の波をかき分けて現れたのは、ミレイユだった。

研究室に現れたときよりも、さらに華やかに装っている。

彼女はテオドールに微笑みかけ、それからリゼットに目を移した。

「あら。査読係さんもご一緒でしたの」

「リゼット・ベルナールと申します。今夜は、公爵様のお供で参りました」

「そう。ベルナール嬢ね」

ミレイユは扇で口元を隠し、リゼットを、下ろしたプラチナの髪の先から爪先まで眺めた。

値踏みするような視線だったが、不思議と意地の悪さは感じなかった。

ただ、面白い相手を見つけたときの目をしている。

ほどなくして、広間の奥で伯爵が手を打ち鳴らした。

「皆様、今宵はお集まりいただき感謝する! ここで一つ、嬉しい知らせがある。我がボーモン家は、これからもグランヴィル公爵閣下の研究を後援していくことになった!」

拍手が湧き起こり、広間の視線がいっせいにテオドールへ集まった。

伯爵は満面の笑みで歩み寄り、革の書類挟みを差し出した。

「閣下、先日の件はちゃんと直しておいた。ここで署名してくれれば皆の前でめでたく締結だ」

召使いが、インク壺とペンを載せた盆を捧げ持って進み出る。

リゼットは背中に冷たいものが流れるのを感じた。

これだけの客の前で差し出された契約書を、その場で隅々まで読むことはできない。

社交界では、それは「あなたを疑っています」と言うのと同じだからだ。

読まずに署名するか、主催者に恥をかかせるか。

伯爵はきっとそこまで分かったうえで、この場を選んだのだ。

テオドールがちらりとリゼットを見た。

困ったような、けれどどこか信頼を預けるような目だった。

リゼットは一歩前に出て、深く頭を下げた。

「伯爵様。失礼を承知でお願いがございます。署名の前に、この契約書を最後まで拝見してもよろしいでしょうか。公爵様の査読係として、それがわたしの務めですので」

広間のざわめきが、すっと引いた。

あちこちで扇が止まり、ひそひそとささやく声がする。

なんて無作法な。

伯爵家の顔に泥を塗る気かしら。

伯爵の笑みが、一瞬だけ固まった。

だが客の前で断れば、読まれて困ることがあると認めるようなものだ。

「……ああ、もちろんだとも。好きなだけ読むといい」

リゼットは書類挟みを受け取り、飾り灯の真下でページを開いた。

第六条は書き換えられていた。

研究の成果の権利は後援者と研究者の共有とする。

附則の最後の一行からは、婚約という言葉がきれいに消えている。

それでも、彼女は最後まで読んだ。

第十一条で、指が止まった。

――後援者は、甲の家政の安定のため、しかるべき伴侶を推挙することができる。

甲はその推挙を尊重し、次の春までにこれに応えるものとする。

リゼットはゆっくりと顔を上げ、書類挟みを閉じた。

「伯爵様。第十一条にある『しかるべき伴侶を推挙し、甲はこれに応える』という一文は、先日の附則の最後の一行と、同じ意味になるかと存じます」

周りの客が息をのむ気配がした。

リゼットは声を荒らげず、言葉を選んで続けた。

「お嬢様を思われるお気持ちはよく分かります。ですが、言葉を変えても約束の中身は変わりません。署名をすれば、公爵様は次の春までに伯爵様が推挙なさる方と婚約しなければならなくなります」

しんと静まり返った広間で、最初に声を上げたのはテオドールだった。

「伯爵」

彼は伯爵の前に進み出て、静かに、けれどはっきりと言った。

「長いあいだの後援には心から感謝しています。ですが、この契約はお断りします。僕の研究は誰かの持ち物にするためにやっているわけじゃありませんし、僕の結婚も条文で決められるものではありませんから」

伯爵は目を丸くし、それから額を叩いて、豪快に笑い出した。

「はっはっは! 参った、参った。今度こそ見つからんと思ったんだがなあ」

その笑い声に、広間の張りつめた空気がふっとほどけた。

客たちもつられて笑い、止まっていた音楽が再びゆっくりと流れはじめる。

リゼットが胸をなで下ろしていると、ミレイユが扇をぱちんと閉じて、すぐそばに立った。

「……あなた、なかなかやりますのね。父のあの顔、久しぶりに見ましたわ」

「ご無礼をいたしました」

「謝ることはありませんわ。読まずに署名させようとした父が悪いんですもの」

ミレイユはつんと顎を上げ、テオドールのほうをちらりと見た。

「今夜のところは引き下がって差し上げます。でも、諦めませんわよ。わたくし、欲しいものは自分の力で手に入れる主義ですの」

言いたいことだけ言って、令嬢は裾をひるがえし、人の波の中へ消えていった。

その背中を見送りながら、リゼットはなぜか少しだけ彼女を好きになれそうな気がした。

そのとき、広間の反対側から、聞き覚えのある声が響いた。

「いやあ、姪がお世話になっているようで!」

振り向いた先に、叔父のロジェが立っていた。

上等な外套を翻し、整えすぎた口ひげを得意げに持ち上げている。

叔父はリゼットとテオドールを見比べ、その顔が一瞬こわばった。

けれど次の瞬間には、周りの客に聞かせるように、声を張り上げていた。

「ご紹介が遅れました。姪のリゼットは、近々ドナン男爵のもとへ嫁ぐことになっておりましてね。いやはや、めでたい話です!」

ざわめきが広がった。

ドナン男爵。

あの金貸しの。

六十を過ぎたご老体の、後妻に。

広間の隅に、大柄な老紳士が一人、壁にもたれて立っていた。

太い眉の下から、老紳士は黙って叔父をにらみつけている。

けれど、その視線の意味を考える余裕は、リゼットにはなかった。

隣で、テオドールが息を止めたのが分かった。

それから彼は、何も言わずに半歩だけ前に出た。

好奇の視線から、彼女を背中で隠すように。

リゼットはその背中の向こうにある公爵の顔を、見ることができなかった。

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